豊かなる社会についての考察
- モブ・イズミヤ

- 2025年4月29日
- 読了時間: 4分
更新日:2025年6月23日
こんにちは。このページを開いてくれてありがとうございます。
しあわせになりたい。大抵の人が本当はそう思うはずで、そう思って良いはずの「世の中」とやらがあっていいと思うしなくてはならないと考えています。
いい塩梅で暮らしていきたい。
そう考えているのだけど、なぜそうならないのだろうということについてぼんやりと考えています。
これを読んでくれたあなたはどう思います?

何が「正義」で、何が「豊かさ」なのだろう。そんなことを考えはじめたのは、きっと、自分の中に「答え」がなくなったと気づいた日からだった気がする。
正しいことをしていると思っていたのに、それが誰かを傷つけていたかもしれない。誰かのためを思って動いたつもりが、相手はそんなこと望んでいなかったかもしれない。
たとえば、映画『タクシードライバー』の主人公・トラヴィス。彼は少女を“救う”ために行動するし、大統領候補を悪と正義の名のもとに殺害を試みたり、その正義は暴力と孤独にまみれたものでもある。その姿が、まるで自分もどこかでそういう状態になる場合が今後あるかも知れないと考え、背筋が寒くなった。
正義は、誰のためにあるのか
「社会を良くしたい」と語る政治家がいる。彼らの多くは、個人として会えば、優秀で明快中な良い志を持った方が多いと感じていて、優しく、真面目で、思慮深い方も多いのだと推測する。それは多数の方と接触した訳ではないのでこれは私見だが。それでも、社会は良くならない。
なぜだろう?
社会学では、これを「制度の壁」と呼ぶ。どれだけ善意の人が中にいても、制度自体が個人を規定し、矛盾を生み出す。「善人」が悪を起こすことすらある。制度がそうさせるのだ。
一方で、制度を飛び越えて動いた人たちもいた。田中正造は足尾鉱毒事件で国を敵に回し、命がけで訴え続けた。人々には理解されず、狂人とみなされたまま生涯を終えた。
声を上げる者は過激派か
グレタ・トゥーンベリさんのように、怒りを言葉にし、既存の権力構造に楯突く者は、いつも「過激」「偏った意見」と片付けられる。
報道の切り取り方ひとつで、「魔女」にも「英雄」にもなる。それを消費する私たちは、知らぬ間に“誰かの視点”で真実を選んでしまっている。
シーシェパードの行動も、正義か狂気かの間で情報が限られているので認識は揺れる。正義が“共有されていない世界”で、誰が何を決めるのだろう?
「正しさ」から降りることは、敗北か
正義を貫くには強さがいる。しかし、その正義が間違っていたと気づいたとき、人はどうするのか?
それに気づくのがあまりにも怖くて、人は引き返せなくなる。信じていたものを手放すには、それを信じた以上のエネルギーが要る。
新興宗教における信心に対する洗脳と洗脳を解くことについて考えるとそのエネルギーは想像以上なのではないでしょうか。
ではその時に人はどうするのか?について
だからこそ、私は特に当事者は次の“2択”しかないのではないか?と一瞬考えてしまう。
「正義を貫いて破滅するか」または「折れて、信じたものを裏切る」のどちらかの二択。
そしてその場合、後者を選ぶ苦悩について考えてみようとするがとても苦しい。
でも本当にそれしかないのだろうか?
豊かさとは「間違える余白」があること
豊かである社会とは、おそらく「正しさを押しつけない」社会ではないだろうか。それは、誰かが間違ってもすぐに裁かず、やり直せる余白があること。そして、自分の中の正しさも、アップデートできる余地があること。
もしかしたら豊かさとは、モノやカネではなく、「揺らぎを抱きしめる勇気」かもしれない。
誰かに伝えたいこと、それはたぶん、自分に向けた言葉
この文章は誰かのために書いているつもりで、たぶん一番伝えたいのは、今日の自分自身だ。
今日の私は、「間違っているかもしれない」と思うことができた。その一歩だけで、少しだけ世界を見渡す角度が変わった気がする。
明日はまた、わからなくなるかもしれない。それでも、問い続けていたい。
正しさにすがらず、正しさを手放さずに。
以上です。
最後まで読んでくれてありがとうございます。



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